top of page

『 「交わり」とは何か 』

コリントの信徒への手紙一11章17節〜26節

 大分教会のミッションステートメントの第三項には、次のように記されています。「交わりを喜びます:私たちは神に造られた者として隣人を愛し、すべての人とキリストを中心とした交わりを喜びます。」「交わりを喜ぶ」とは、「関係を喜ぶ」ということです。全ての人との交わりを喜ぶということは、全ての人との関係を喜ぶということです。良い関係が、良い交わりを生むのです。  パウロは、自分が開拓したコリント教会の信徒たちに向かって、「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(27節)と警告しています。パウロが言っている「ふさわしくない」とは、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」(21節)という状態を指しています。  パウロの怒りは、コリント教会の人々の関係に向けられています。彼らの食卓から見えてくる特徴は、「孤立」です。一緒に集まっていながら、富んでいる人、貧しい人、ユダヤ人、ギリシャ人、「各自」で食事をしている。「バラバラ」なのです。「それでは、…主の晩餐を食べることにはならない」(20節)のです。  イエス様は、生前、食卓から排除された人々、罪人や病人、貧しい人々を招き入れ、共に食事をしました。「孤立」した人々を、「関係」の中に入れられたのです。この交わりのために、イエス様は、ご自身を献げられたのです。主の晩餐のパンとぶどう酒は、その象徴です。これが、私たちの交わりの原点です。  交わりについて悩む時、この原点に戻りましょう。一人ひとりは、主に招かれた罪人である。私たちの間には、主がおられる。主が、私たちを共通の土台へと導くのです。交わりを喜ぶために「キリストを中心」に据えるのです。   

(村田悦牧師)

bottom of page